

いじめ
私がコミュニティを考え出したきっかけはいろいろありました。
誰もが一度は、「理想郷」を夢みたり描いてみたりしたことはあるでしょう。
私もそうでした。
最初はきっとあの時だったと思います。
今から45年前のことです。
それは小学校6年の時、引越しをし、小学校も変わりました。
転校してまもなく「いじめ」に遭いました。
そのいじめは、陰湿でとても激しいものでした。
もっと詳しく読みたい人は「伊東聖鎬(金聖鎬)HP」へ -いじめ-
二度の自殺も計りました。
6年在学中のほとんどは、クラスメイトと担任が一緒になっての「いじめ」でした。
隣近所でも、同様な「いじめ」に遭いました。
10才を過ぎたばかりの少年にとって、とても辛い体験でした。
それでも登校拒否もせず、耐えつづけました。
「自分の気持ちを分かってくれる友達や大人たちがいて、皆仲良く、隣近所も仲良く楽しく暮らせる。
そんなところがあればいいなあ」そんなことをしょっちゅう考える少年でした。
そんなことは人に話せず、頭の中で、「ああであればいいな。こうであればいいなあ」と考えていました。
中学~高校時代
中学時代は受験々々に振り回され、一番感性が育つ時期であろう中学時代を充分に謳歌できませんでした。
「もっと仲間たちと議論したり、遊んだり、勉強したり、自分たちのやりたい時にやりたいことをやる。
そんな生活を送りたい。それなのにまったく自分たちの自主性は無視され、
学校のシステムに組み込まれ、無理やり受験勉強。中学時代はもっと他に伸ばすところが
いっぱいあるのに、人間性を無視され、何のための、誰のための受験勉強なのか・・・・」
「自分の納得のできる生活ができる、そんな所があればいいのになあ」と考え、
いつも「理想郷」を想い描いていました。
高校時代には生まれ故郷の京都を離れ、上京しました。
案の定、受験に失敗し、ようやく引っ掛かった高校でも、一年生の一学期で学校側と創氏改名で
トラブルがあり、二学期を迎える前に退学することになりました。
あれほど嫌っていた受験勉強を、また東京でするようになりました。
そして、ようやく引っ掛かったのは定時制高校でした。
一年後、全日制に変わることができたものの、やはり学校制度に納得がいかず再び定時制へ・・・・
そんな、しっちゃかめっちゃかな高校時代でした。
もっと納得できる社会であっていいはずだ。
そんな思いが「法的地位、祖国統一闘争の政治運動」へ走らせたのでしょう。
激しい政治運動の生活が続きました。
そんな生活の中で、大学進学の意味を見つけるのは大変むずかしく、担任に「大学進学はやめます。
少しでも早く社会に出て、自分の納得できる生き方がしたいのです。
社会を大学と考え頑張ります。全日制から定時制へ替えて下さい」と頼み込みました。
1年余分の4年間の高校生活でした。
感受性が強い少年でした。
友人の誰よりも早く、いろいろなことについて意識していました。
そんな私ですから、今の社会制度の矛盾や疑問をたくさん感じていました。
当時の日本においては、在日韓国人として生まれ育った者に与えられたのは余りにも
不公平な立場、権利でした。
私はいろいろな問題を真正面から感じ、受け止めていました。
「何とかならないのか」・「どうすればいいのだろう」・「どんな社会ならいいのだろう」
そんなことばかり考えていました。
「高校卒業と同時に海外に出よう。外国にはきっと理想的な国や社会があるだろう、
それを自分の目で見てみたい」と考え、そのための準備に北海道へ渡り、トラクターや重機の
免許を取ろう考えました。
各国の大使館に行き、外国に行きたいと相談もしました。
しかし、「一度祖国へ行って下さい。そうゆう決まりですから」といわれました。
それは、政治運動に関わってきた私にとって、「日本国内から外へ出ることは許されない」
を意味するものでした。
韓国政府は、在日韓国人の政治運動を快く思っていませんでした。
またその頃、政治問題もいくつかあり、それらにも関わっていましたから、気軽に韓国に行ける
状態ではありませんでした。
もっと詳しく読みたい人は「伊東聖鎬(金聖鎬)HP」へ -高校時代-
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