CWコミュニティ構想

第8章 第2の人生

私はこれまで「物」を求めての生き方をしてきませんでした。

ただ、ただ、「自分の生まれたことの意味。これまで生きてきたことの意味。
今も生き、これからも生きていく意味」を、知りたくて生きてきました。
何度も死にかけ、何度も命をかけてきました。
そして、命をかけて掴んだ「自分の存在の意味」。

 

「女の幸せ」にすべてをかける

 
本当に、「人の役に立つ」とは、どういうことなのかを、考える日々が続きました。
それから、そんなに間がなく、1人の女性が現れました。
「私は幸せになりたいのです」
率直な言葉でした。
「僕も自分のすべてをかけるから、君もすべてをかけられるか?」
「ハイ!できます」
それから一年後、2人で全国放浪の生活を始めました。
そんな生活を、北海道から石垣島までの全国各地で生活しながらの、「彼女の幸せ掴み」でした。
そして、彼女は、「幸せを掴みました」とはっきりいいました。

 

人生は55歳から

 
事業をするにも、何をするにも「55才が、自分のスタート」、と27才の時に感じ、それ以来ずっと頭の中で、目標としてきました。
その55才スタートのために、49才で東京に戻ってきました。
それからは、多くの人が、「自分の幸せを掴む、それに自分はどんな手伝いができるのだろう」、と考える日が続きました。
いろいろな企画やアイデアがたくさん出てきました。
スクール・全国講演・自分の情報をキャッチする方法の指導・治療・赤ちゃんとお母さんの場・夫婦の場・親子の場・教育者・経営者・医療者・さまざまな人に対しての場……
3年間考え続けていました。同時に、心の準備もしていました。
その間、仕事はほとんどしていませんでした。
年に3~5回の合宿セミナーだけを行っていました。
生活をするのには、やっとの状態でした。
そのかわり、考えたり企画したりするための時間は充分にありました。
私が、22・3才のころ、それはトレーラーで、まだ東名高速道路も完成していない頃です。
全国長距離鮮魚運送をしている頃です。
私の家族は、私が、そんな危険な仕事をしているとはまったく思ってもいなかったと思います。
そんな時期、父は、「お前の中学の同級生の〇〇君は、あの年で親に家を建ててやったそうだよ、それに引き換え、お前は何をやっているんだ!」
そんなことを何度か云われわれました。
彼らの事情も、いろいろあるでしょう。
私は、「自分の生きている意味だけを知りたくて、自分をぎりぎりの限界にいつも追い詰めて生きていました。
親のことを考える余裕など、まったくありませんでした。

そんな生活も、姉の娘、2歳になる姪の知的障害が分かり、「なんとかしなければ」、の一心で、それまでの生活―「自分の生きている意味を求め、ぎりぎりまで自分を追い込む」をやめ、「どうしたらいいんだろう」・「自分は何ができるだろう」、そればかりを考える日々でした。
そして、考えた末に選んだのが、「医療の世界」でした。

それは、自分のことだけに集中していたそれまでの生活が、「自分以外の人間に目を向けるキッカケ」になりました。
高校生の時から行っていた政治運動、「在日韓国人の法的地位の確保」も、より積極的に加わっていきました。
大使館へのデモ、機動隊や右翼との衝突、祖国の軍人政権打倒、そして、同胞の年寄りへの医療奉仕活動。

鍼灸学校へ入学してからの、医療技術の勉強の道程は、順調でした。
1年生の夏までは、それまでの生活を切り替える時間と考え、あまりまじめな生徒をしていませんでした。
2学期からは、真面目に勉強しようと、夜間部に変わりました。
実戦での技術を修得しようと、サウナのマッサージを同級生から1時間の即席で習い、
その足でサウナのマッサージ師として面接を受けました。
実施試験もありましたが、一発でOKでした。
もともとが、人の体にふれたりするのは、嫌いではありませんでした。
小学校の時から、柔道を習い、同時にボディービルも始めていました。
自分の裸や人の裸には慣れていました。

そんなある日、別の科の女性たちが、「金さんは熱心だから話があるのだけど、私達は、今リンパマッサージを習いに行っているのだけれど、誰か仲間がいればもっと気軽に関わりやすいのに……
そんなことを考えていたら、あなたのことが頭に浮かんで、それで相談するのだけど、どうかしら、リンパマッサージの勉強してみない?もし気持ちがあるのなら紹介してあげる」
という話をしてくれました。
私は、基本的に快活な方ですから、1年の2学期も間もないという頃でも、すでに学校中に知られていました。
そんなことが幸いしたのでしょう。
リンパマッサージといえば、今は多くの人が知っていますが、実は「リンパマッサージ」という言葉は、私のそのときの先生(紺野吉雄先生)が、命名されたものだったのです。
もともとスポーツマンだった先生は、怪我がちで、それを克服するためにマッサージを研究していたのですが、その過程で開発されたのが「リンパマッサージ」だったのです。
先生は、勝手に「リンパマッサージ」という言葉を使われることを嫌い、商標登録をされました。
その後、無断で「リンパマッサージ」の使用があるたび、裁判所やその分野の事務所へよく出かけていました。
その時の車の運転手が私でした。
だから、事情をよく知っています。
「リンパマッサージ」は、日本で開発され、ほんの僅かな人しか技術は習っていません。
日本国内で、「リンパマッサージ」の看板を出しているところのほとんどは、「リンパマッサージ」がどんなものかは知らないと思います。
そんなこともあり、幸いに私は、直接先生から指導を受けることができた僅かな人のうちの1人になることができました。
3ヶ月が経った頃、昼間部にいた頃の友人が、「玄米菜食の森下先生の御茶ノ水クリニックの物療科で、臨床の助手をやらないか」と云ってきました。
二つ返事でOKしました。
お茶ノ水クリニックでは、電気針・良導絡・カイロ・漢方薬・食餌療法を中心に行なっていました。
3年生の3学期になった頃には、次の勉強として、カイロプラクティックを選びました。
それは、クリニックに新しく入ってきた同僚が、それまで行なっていたカイロとはまったく違う考え方、技術を披露してくれたのです。
それに、すっかり魅了された私は、彼のいう「来年3月から米国帰りのカイロプラクティックのドクターがスクールを開校するので、生徒を募集している」に飛びつきました。
クリニックを辞め、そして、米国のパーマ・カイロプラクティック大学を卒業したドクターのスクールに入学したのが28才のときです。
それまでのカイロプラクティックは、ただ、ポキポキだけのものでしたが、パーマ系カイロプラクティックは、X線フィルムで検査をし、理論もしっかりしていて、説得力もあり、技術も素晴らしいものがありました。
すっかり夢中になって、勉強に励みました。

そんな頃です。
「姪の知的障害を治そう」、で始まった私の医療との関わりでしたが、新しい技術を学ぶ度に、5才になる姪に対して治療を行なっていました。
そして、ある時、気づきました。
「姪は病気ではない!あれが彼女の個性であり、持って生まれたもの、治すのではなく、彼女が安心して生きていける空間を作ることこそが本当は必要なのだ。これからは治療しようなどと考えないで、そんな空間を作るにはどうしたらいいのか、それを考えることだ」と気づきました。
それまでも、チャンスがある度に障害児(者)の会合にも出ていました。
その頃は高円寺の、6帖・3帖のアパートにも患者さんが来るようになっていました。
その患者さんの中にも、知的障害の人が何人かいました。
そんなこともあり、私の医療との関わりも、大きく変わることになりました。
それは、「よく勉強し、良い技術を身に付け、姪を良くする」から、「いかに多くの人に障害児(者)のことを理解してもらうか」、にです。
そのためには、「人とはまったく違うレベルでの技術を持ち、人の前で講演やセミナーを開くことが早道であり、確実な方法」と考えるようになりました。
そう考えると、6帖・3帖のアパートではなく、もっと大きな綺麗なところへ変わる必要がありました。
池袋の一つ先の大塚のマンションの7階に越しました。
29歳の夏でした。
カイロプラクティックを熱心に勉強すると同時に、セミナーも始めました。
お茶の水クリニック時代の同僚が、10人ほどと、リンパマッサージを習い出してすぐの頃から、友人・仲間が所属している、中央競馬会の後楽園や渋谷その他いろいろなグループに対しても、リンパマッサージの指導を行っていましたから、その時の友人や仲間達も加わり、いつも20人ぐらいが参加していました。
治療院とセミナーを同時に行っていました。
経済的にも少しずつ余裕が出てきたころでした。
参加者が次々に紹介者を連れてくるようになり、セミナーのクラスも増えていきました。
そんなときでした。
思いがけない行き詰まりに遭ったのは。
それは、「こんな治療では患者さんは良くならない」と感じるようになったのです。
どうも違うのです。
私が目指しているものと……
私は、あくまで「その人の治療であり、その他大勢、誰に対しても同じ治療法―技術」というのに馴染まなくなってきていたのです。
私は、最初から特定の相手、「姪」が対象でした。
それまで学んできたものは、その他大勢用の技術でした。
それを彼女に押し付けていただけでした。
しかし、その頃はよほど強くは感じてはいなかったのです。
だんだんと違和感が膨らみ、ついに「待った!」がかかったのです。
こんな私ですから、1度そう決めると、はっきりするまで「適当」ができないのです。
自分の納得できない生き方をしていれば、「理想郷作りは遠のいてしまう」、そんな思いもありました。
治療もセミナーもすべて中止にしてしまいました。
といって、治療の世界からまったく抜け出すわけにはいかない。
次の「何か」が見つかるまで、「何か」をしていなければ……
そんなことを考える日が続きました。
そして、出てきた答えは、米国から入ってきたものだから、カイロプラクティックをする場合、日本には器具が一切ありませんでした。
輸入するしかなかったのです。
それなら、自分が作ろうと考えました。
まだカイロプラクティックの治療院は、全国でも500はありませんでした。
まったくのカイロプラクティックの夜明け前の頃のことです。
私、30歳でした。
カイロプラクティックの器具を扱う業者も、作っている所もない……
という現状の中で、私は器具類を見よう見まねで作り始めました。
出来上がったものを友人に見せると、自分も作って欲しい、ということになり、数10セットも作るはめになりました。
余分に出来上がったものを、全国のカイロを行っている人にも紹介しようと、DMしました。
反響はすごいものがありました。
そこで、また考えついたのが、「いろいろな治療院でそれぞれ使わなくなってしまった機器・器具類を、求めている人に、安く譲るという情報誌の発行」です。
全国から反響があり、それでできたのが、「治療院の情報誌」でした。
その後、「情報誌」は私のスタッフのメンバーが引き継ぐことになり、今は「治療家による治療家のための情報誌FIND・ファインド」となり、今も頑張っています。
何をやっても中途半端ができない私ですから、機器の開発には実家を担保に、1,200万円を借りました。
それをキッカケに、医療器具開発販売の株式会社「ゲンダイメディカル」を作りました。
しかし、開発資金も短時間でなくなり、残ったのは借金だけになってしまいました。
それもひとつの区切りにはなりましたが、そのころ、それまでとはまったく違う治療のための検査技術が米国より紹介されました。
それに私は飛びつきました。
それは、筋肉を使った検査法でした。

それをキッカケに、器具の開発から、治療技術の開発に方向を変えました。
又、治療に熱心に取り組始め、セミナーも再開しました。
それから、2~3年後には、専門書も出版しました。
最初の2冊は、1年足らずでベストセラーになりました。
それがきっかけで、全国セミナーが始まったのです。
そのころは、筋肉の反射を利用した「筋肉反射検査法」を治療に応用し、セミナーでも指導していました。
それで次の段階としての「空間キャッチ」が生まれました。

医師や歯科医師・助産婦も含め、3,000回以上のセミナーを行い指導しました。
しかし、「同じ技術で誰にでも通用する治療法」を、求める多くの人にとっては、大変難しいものだったようです。
私は、「その人、1人のために新しい技術・考え方を開発したい」のです。
そんな考えからできている私の治療法でした。
やはり、それは大変難しかったのでしょう。
多くの人が、挫折していきました。
私は、北は札幌・帯広・仙台・東京・名古屋・金沢・大阪・京都・松山・福岡・熊本・長崎など全国各地に支部を持ち、毎月セミナーを行っていました。
又、その内のいくつかの支部では、育成会と称し、人材を育てるために、セミナーの前後の日にそれぞれ集まり、会合も持っていました。
セミナーだけでは、理解するのは困難だということを知っていたからです。
私の生き方や、考え方を理解し、実際の臨床を見学することが大切と考え、各地で公開治療も行いました。
全国各地に、何百何千人の会員がおり、それぞれ熱心に勉強していました。
しかし、「先生は特別」と考え、「付いてさえいけばいい」的な雰囲気を感じるようになってきたころ、私はいきなり会を解散しました。
それは、「私も皆と同じ、まだ求めている身、先生!先生!といって付いて来られるような立場ではない、皆も、私と同じように、自分の求めるものを、命をかけて掴まなければいけない」そんな思いでした。
又、私の本拠の本部にも、全国各地から10数人のメンバーが集まり、CK塾を行い、共同生活をしていました。

それさえも同時に解散しました。
「経済的に行き詰まった部分もありましたが、経済のことは何とかやろうと思えばできるものですが、明確に自分の求めるものに向かっていないメンバーを見たとき、この状態が良くない」と感じるようになっていました。
そう思うと、少しでも早いほうがいいと考え、全員にそのことを伝え、完全に解散しました。
私42才のときです。
その後は、呼吸法で得た「黄金に光り輝く空間」の意味を知るための時間にあてました。
それからです。
死に場所を求めて大分に行ったのは。